絶妙な角度

外の世界はそこそこに精神世界で生きていこうと思考錯誤している若手農家です。興味のあるジャンルを徹底的に思い込みで執筆していきます。

脳は常に周波数を放つ

皿洗いが面倒、という事は脳の放つ周波数はかなーり低下している。それを証拠に今日はかなりネガティブに。。
皿洗いが面倒。。となってきたらおれにとって機嫌の状態が絶賛低下中ってワケだな。
 
脳みそは常に周波数を放っておるので(電波とかと一緒で目に見えないけど)低下した不機嫌な周波数で現実を見ると、不機嫌に脳がチャンネル合わせをしてしまってるので現実も不機嫌を呼び込む状態に見える。
いつもワクワクしている人とイライラしている人に同じ景色を見せて感想言わせたら絶対に違う。
 
人とのコミュニケーションもそう。
イライラしている人がそばにいるだけでこっちもイライラ。緊張している人のそばにいるとこっちも緊張。安心感のある人のそばではこっちも安心。これが証拠。
人はコミュニケーションしている前の段階で脳は周波数ですでに無意識でやりとりしている!チャンネル合わせをしている!!
一目惚れとか運命の人、何かこの人とは仲良くできそうだ、この人とは無理そう、というのもこういう事か!

 

感情や思考の周波数も海の波と一緒。波に違う波をぶつけてもうねりを上げて激しくなるだけ。ならば逆らわずに同じ波をぶつける。すると穏やかになる。
音の周波数も一度放ったらそのエネルギーは永遠にどこかに続くらしいが、同じ波形をぶつけると打ち消すらしい。
誰かから聞いたけど船酔いも波に逆らうから酔うらしい。波に身を預ければ酔わない。
 
うーむ人間も同じだ。って事は今の自分を抑圧する事が一番アカン行為って事だ。今放っている周波数に対して異なる周波数をぶつけても荒れるだけ、って事だ。
今の気分に気付いてそれに浸る。つまりは波長を合わせればその周波数は消える!
「今」を否定すれば一見収まるように感じるけど、それより大きいうねりで再配達されるかも知れない。
一般的に人はポジティブは受け入れるけど、ネガティブは否定。これがさらなる大きなネガティブを呼び込む事になる!ならばネガティブも小さいうちに受け入れる。ポジティブの気分に浸るようにネガティブの気分にも浸る。。
芽は小さいうちに摘めとはよく言ったもんだ。。

現実は内面でイメージした結果の証明であり、辻褄合わせ。

・ある情報が深層心理に入り込んでくる状態というのは、その情報により、思考や感情が伴う時にある。
最も情報に洗脳されるのが幼少期。そして大人になっても情報に簡単に洗脳されます。マスメディアや扇動屋がよく使う手法で多いのが「恐怖」や「怒り」や「悲しみ」や「恥」をセットに情報を持ってくる事。そして当人達のそれぞれの立場においてその情報について考えさせる。
人を情報で操るのは簡単です。原始的な感情と思考を煽る。敵がいるから敵を撃退せねばならんのです。敵がいなけりゃ扇動して作ればいい。時代は違えどやってる事の本質がいつの時代も変わっていない。
ここ最近の世界の流れには要注意。
 
 
・瞑想などでなりたい結果をリアルにイメージできたなら、現実がその結果の辻褄合わせや結果の証明的な役割で動いていく事はもはや最先端の量子学で証明されつつあるらしい。
「トイレに行こう」と思った時点でもうトイレに行っている。あくまで内面の世界では。外面の世界ではトイレに行ったという行動は席を立って廊下を歩き、便器の前に立たないといけないわけです。それがあくまで現実でこの世界に生きているって事です。しかし、それは内面からすれば現実は内面の辻褄合わせ、結果の章目にしか過ぎないって事です。
これを引き伸ばして考えると、今この現実は自分がいつの日か意識か無意識で設定した結果、もしくは過程を過ごしているのかも知れません。だから過去を振り返ると何だかんだでうまくいってる事の方が多いし、なりたい自分になるストーリーを生きているように感じるはずです。まあ人によりますか。
正直自分で書いてても意味不明ですし、よく分かってませんが、結果をイメージしたら今の自分を過ごしているだけで、結果に近づいているし、もしかしたらもう結果を通り過ごしているのかも知れないって事です。
現実を見てそれに従って生きるより、内面で先にイメージして現実は辻褄合わせ扱いにして生きていた方がどうやら面白くなりそうです。

自己否定の声の向き合い方。思考の手放し。

自己観察と執着の手放しの手法でたまにやってるんですが、ゆっくりしている時にあえて抑圧していた不安や恐怖を意識的に炙り出します。そしてみぞおちが鈍く嫌な感じになってきます。緊張とか不安を感じる時に出るあれ。
んで思考を観察すると自己否定の声がバンバン聞こえてきます。
それを紙に書き出す!一気に書き出す!頭によぎった瞬間に書き出す!それを声に出したり眺めたりする!
  
  
「お前このままでいいと思ってんの?本当にダメな奴だな」「借金どうするの?」「みんなもっと頑張ってるよ?この常識知らずめ」「社会は甘くない」「世の中思い通りにいくと思ったら大間違いだよ?」「もっと苦労しろよ。お前だけだよ苦労してないの」「他人の事をもっと考えて生きたら?自分は後回しにしろよ」「他人を傷つけるなよ。嫌われて独りになっちゃうぞ」「他人に迷惑は絶対にかけるなよ。自分は殺して空気を読め!」「もっと仕事しろよ」「甘えるなよ。楽するな」「お前の作る曲なんて誰も聞いちゃいねーよ!自己満足のオナニー野郎め!」「フェイスブック、いいね全然貰えないねお前。お前の事理解してくれてる人この世にいないんじゃね?孤独だね〜笑」「お前がこの先自営業主としてやっていけるの?無理だろ絶対」「他の誰かより優れなきゃダメだよお前」「お前で田中家の農業は終わりだね」「見てくれだけ着飾って、中身は空っぽだなお前」「だから言っただろ。お前はグズなんだから他人に責められて当たり前なんだよ」「血反吐吐いてでも一番を取れ」
  

もうやめろや!やめてくれ!!!やめたげて!!!
マジでへこんできます。。ちょっと集中して自己否定に耳を傾けただけでこんなにw抑圧されすぎ!!
つーか自己否定の声って矛盾だらけじゃん!!「他人の事を考えろ」とか言っときながら「他人より優れろ」とか。こんな声に惑わされているわけです。多くの人は。とにかく「今のままじゃダメ」らしい。
自分を傷つけられるのは他でもない、自分自身なのだという事を実感させられます。
他人のせいネガティブになるのではなく、そういった思いが自分の内部にあるからそれに呼応しているだけ!他人のせいにしちゃいけないんです!
自己否定の声が潜在意識に染み付いてしまっている数が多いほど、その分だけ他者批判に繋がる事は容易に考えられます。
 
大切なのはこうやって無意識に抑圧された思いを表に出してあげる事なんです。
人は毎日をほぼ無意識で動いています。いや、意識的なんだけどそれは幼少期に感じた感情や思考が判断の元になっているんです。幼少期に学んだ恐怖や喜びなどのあらゆる感情やあらゆる常識や思考を、大人になっても幼少期の頃と目の前の出来事は違えど、その場面に思考と感情を適応させてループさせて反応しているだけ。
人によってはこの自己否定の声と戦って頑張り、一見社会的に成功している人もいますが、当人は絶対に辛いはずです。この声の力と同じくらいの力を出して張り合って逆の事をやっているわけですから、こうやって成功した人ほど自己否定の声も大きわけです。もう潰されちゃいそうなくらいな自己否定の声に逆らって生きている。辛いでしょうね。
自己否定に逆らって生きると病気はするし、トラブルは起こるしでロクじゃありません。
 
多くの人はこの自己否定に逆らって生きている。おれもそうでしたし、今もそういう側面があります。上の自己否定の声を読み返すと、「他人を考えろ」が多いですね。これに逆らって自分は自由でいようと思うわけです。
子供が親の言う事の逆をやるように、天邪鬼になるように、未だに自分らも「心の声」の逆をやっているわけです。
無意識は天の邪鬼やツンデレと言いますが、それは他でもない、自分たちなのかも知れない。
 
この無意識に抑圧されたネガティブを意識的に炙り出して手放さない限り、内面が外面を作り出す事はどうやら絶対法則らしいので、ネガティブな出来事が次々外面に投影されていくって寸法です。 
現代は自分で情報を処理する前に新たな情報が上書きされていくので、どんどんどんどん無意識にゴミが溜まっていきます。
目の前の出来事で無意識君はちゃーんと「旦那〜、ネガティブが適切に処理されてませんぜー」ってネガティブな思考や感情を使ってお知らせしてくれてるんです。
でもそのネガティブと向き合わないで「ストレス解消」という名目であらゆる娯楽や趣味や情報に勤しんでネガティブを誤魔化して無意識にまたおいやってしまいます。アーティストなんかはこれを創作の力に転嫁しているんでしょうね。
 
 
でもしかし、これでは手放した事にならんのです。
ちゃんとその出来事と向き合う。受け入れる。まあいっかにする。紙に書いたり声に出したりして、内面を外面に現象化させる。元の原因は何なのか探ってみる。どうこうしないでただ存在を認める。気付く。これが自分の考える手放しの作業です。
無意識ってのは不思議なもんで、自己否定やネガティブの声に従うでもない、逆らうでもない「ただその存在を認める」だけで満足して静かになってくれるんです。今まではそんな事に気付かないで自分に振り回されていました。
んで昔話はよくできているもんで、貧乏神を心の底から受け入れた途端に福の神になるが如く、逆の力に働くんです。

そろそろ大掃除の時期ですし、どんどん自己否定して無意識を掃除しましょう!!

外にあるものは自分自身の煩悩や執着の象徴

目の前の起こってくる現象、あらゆる私物は自らの内面が外面に現象化、物質化したもので、それは煩悩、執着の象徴。
そしてそれは過去の内面の象徴でもあるので、過去に執着してとらわれている者は望んだ未来は流れてこない。
だから断捨離、ミニマリズムが面白いんですわ。
 
大切にしていた洋服や集めていた音楽、本、勉強して得た知識、自分のアイデンティティにしていたあらゆる思想のこだわり、自分の関わる場所にあるホコリや チリ、これを内面の執着、不要なゴミとして掃除。徐々に手放せるものは手放していく。おれ部屋の掃除はたまにしかしないけど。。
自分の身に集める行為というのは「自我やエゴ」の役割でもある。捨てていくと必ず人生の新たな分岐が始まると思います。
人は何かを手放した時、そして失った時に何かを学んだり、何かを得る事が多いのではないでしょうか?それが大切なものであるならあるほどに。
 
執着を手放して「もういいや」「まあいいか」にすると生きるのがとても楽になる気がします。善悪の正解を出さないんですから。
捉え方でいくらでも悪になり、善にもなるのがこの世のあらゆる出来事の常です。善か悪か判断してるのが自分「自我やエゴ」であり、執着の象徴なわけです。
「こうなりたい、こうあるべきだ、こうしなきゃいけない」これを執着や煩悩として俯瞰して手放す。「別にいいや」にする。
 
みうらじゅん氏は断捨離に中指立ててますが、彼のように千手観音のごとく執着を握れる手のひらがたくさんある人はそれはそれでいいんじゃないかと思います。つーかどっちでもいいです。自由ですし。
ブッダは一度家族を捨てて家を出ているらしいですが、究極の断捨離ですね。
積み上げたものぶっこわしてー、身につけたものとっぱらってー、みたいな感じっス。
 
…やっぱこんくらいの夜中になるとあっちと繋がるタイムになるな。集めていた断片的な考えが脳みそで一気に集約されてボンボン出てくる。
これが不思議なもんで興味のある分野でしか発揮されない。
脳はおもろい。

この世の正体みやぶったり!!(かも)

科学的な知識と文章力が稚拙ですので、精神世界とか内面とか書き出すとどうしても胡散臭い宗教とかふわふわスピリチュアル的な文章になってしまって「うわ、、ヒロユキがやべーよ」となっていきますが、またここ最近で気付いた事を上げます。
世の中の成功者や人生楽しんでる人は知ってかしらずか、確実に以下の概念を用いていると思います。
変性意識入った時に編集しながら書いてるのでダラダラと長いです。
 
 
・「生」は、地球と大自然から人間を借りているという事です。つまり「体」と「思考」と「感情」をレンタルしている。「死」はレンタル終了って事です。
レンタル品は自分のものじゃありませんよね。じゃあ本当の自分って誰だっつー話ですが、それは「意識」。感じている自分、体験している自分、想像する自分です。茂木さん風に言うとメタな自分です。
人間ゲームをやりに、この地球にきてるんです。人間を使って感じられるあらゆる事を我々は体験しにきてるんです。
ダルビッシュはトミージョンやった時に右ひじに感謝の念をつづっていましたが、体は借り物ですので大切に使いましょう。
 
 
・内面(イメージ力、想像力)が外面(現実)に投影されます。イメージでワクワクすると、イメージした事とは違えど、形を変えたワクワクが外面に投影され ます。反対に現実的、ネガティブな思考パターンを持っている人はやっぱりその通りの外面が投影されます。。内面=フィルム記録、外面=フィルムの上映 会、ってなもんです。これ、自己観察してるとマジでそうです!素晴らしいシステムっす。
 
人間は1日で9万回も意識上、無意識上で思考するそうですが、いつもの思考パターンを内面で9万回もしたらそりゃ外面は何も変わりませんよね。
大人になるにつれて、みんな現実を見て想像力を使ってしまっていますので、外面と内面がくっ付いてしまっています。せっかくの想像力なのに、それをちっと もワクワクする方向に使ってないんです。成功してる人はネガティヴを受け入れて常に前向きにイメージしてワクワクしてるんです。
子どもの想像力は素晴らしい。ワクワクした想像力を常に全力で働かせていました。だから子どもの頃って今思い返しても楽しい思い出ばかりなんですね。
イマジンオーザピィーポォー、ジョンレノンは偉大です。想像の大切さを歌っています。想像は創造とも言えます。イマジンはめっちゃ大切です。
 
 
・瞑想。借りている人間の持つ思考システムの「自我」が放つ雑念やいつもの思考パターンを客観的に探れます。自我は現実主義でイメージ力を否定する側面を 持ちます。現実で生きてきて得た教えや経験を元に判断を下しています。人間を人間たらしめているのもこの自我のおかげで、「自我=外面主義」と「意識=内 面主義」って言えるでしょう。
瞑想は外と内のバランスをうまく整えましょうよって話なんです。
ちなみに瞑想が深まっていくと子供の頃の、心の声に否定されない超純粋な想像力が戻ってきますので容易にイメージが出来るようになるはずです。
達磨大師は瞑想でトリップし過ぎてハマりまくって手足が腐った、と言われるくらい人間は想像力に生きる事が出来るんです。
 
 
・苫米地博士が言う抽象度の高さ、高城剛氏が言う圏外ですが、瞑想の時間はどちらかというと内面のデフラグとフィルム記録で、主には日々の生活で体験する 事による思考と感情の動きを追っていた方が自己への気付きが多くなるかもしれません。これをやってると抽象度を高く持つ事の意味と、圏外がどんなものなの か分かってきます。あらゆる選択世界、パラレルワールドが混在するこの世で自分が全力で感情移入して参加すべき舞台はどれなのか、それが分かってきます。 圏外にいると自分が興味の有る分野と無い分野がハッキリしてきます。
出来事への無関心と客観視は紙一重です。
 
いつもの思考パターンを無理のない範囲で観察してみる。自分はどんな事を言われて胸がざわついてるんだろう、どんな事をされて腹が立っているんだろう、どんな事を嫌がって避けているんだろう、どんな事が心地良いと思えるんだろう、と。徐々にパターンが見えてきます。
そしてそのパターンは過去と現実から判断した自我が思考と感情を作り上げているのだ、と気付いていきます。ここに気付かないとずっと思考と感情がループし て堂々巡りになります。あまりに現状と掛け離れた事をやると一気にリバウンドするので、ちょっづつちょっとづつ、自我を可愛がりながら騙し騙しやっていき ましょう。
 
 
・人には役割があります。どんな人であってもです。みんな全力で人間ゲームを楽しむ為に役目を全うしています。ジョージアのCMでも「世界は誰かの仕事でできている」と言ってます。みんな繋がっています。
人間は皆どんな環境、どんな人格であれ、存在するだけで価値があるし、意味があります。どんなにネガティブ野郎でもポジティブ野郎でも、浮浪者でも、成功 者でも、です。みんな感情移入がヤバすぎる役者であり、その役目を全うしてるだけなんです。だから今の自分でオールオッケー。どんな幸せでも不幸でも今を 楽しむだけ。何かになろうとも思わなくてもいいし、なろうと思ってもいいし、やろうとしてもいいし、やらなくてもいいし、マジで自由です。
自分自身の今の立ち位置、環境は自分が味わいたいからそうなっているし、そこから何かを学ぶ為にそうなっている。
意識は本来、全てを想像できるし、創造できるんです。イメージを使えばあっという間に海外にも行けるし、めっちゃ高級な食事もできるし、仕事で大成功でき るし、皆とワイワイ仲良くできるし、世界が平和になるようにだって想像できる。アッチの世界じゃあっという間に想像した事が創造できる。
それじゃツマラナイから、不足の感情、思い通りにならない思い、何か失う悲しさ、そして陰陽の跳ねっ返り、カタルシスを味わう為に我々は人間を借りてこの 世に遊びにきたんです。ネガティブを味わいに来てると言ってもいいでしょう。「だからこんなんじゃだめだ」と自己否定したり「もっとやらねばならない」ネ ガティブを否定すればするほど、自我は嫌がりますが意識としてはアッチじゃ味わえない想いを体験できるのでめっちゃ嬉しいわけです。んでそういう鬱屈した 日々があるから、喜びや幸せが感じられるんです。
ネガティブの後には絶対にポジティブがきます。この世の法則の一つです。注意深くチェック。
 
 
・人生はもしかしたらシナリオ通りかも知れません。意識がコッチに来る前にアッチの世界で書いてきた台本があるはずです。あらゆる体験をこの制限世界で楽しむ為に。
人生って思い返すとびっくりするぐらい「うわーよくできてんな〜」と思いません?人によってはそのまま映画とかドラマにできそうなくらい。この年になってつくづく思います。
借りてる人間の持つ思考と感情が全力で日々に感情移入させてくるので、シナリオ通りだと中々気がつけないだけなんです。
でー、何で人って宗教とかスピを気持ち悪がったり、苦手とするのかというと、本質に気がついちゃうからなんです。気がついちゃうとツマラナイ。だから無意識層にそういう事柄を拒否して遠ざける機能があるんですね。
 
 
おれはオカルト好きで精神世界には好奇心旺盛なんでその機能は弱いみたいで、こうやって書くのが役割なんですな。
最近は抽象度が高く圏外の意味が分かってきたので幸せは感謝して楽しんで、不幸すらも感謝して楽しんでます。まだまだ感情と思考に囚われますが、不安や恐 怖や緊張を感じて避けてた事を、わざと突っ込んでいってやるとか、周りに流されずに嫌な事は嫌とキッパリ切ってみる、とか。結構実験してます。
あー、生きてるっていいなあ。

とよふく

ずーーーっと気になっていた千葉県佐倉市の伝説の眼鏡屋さん「とよふく」に行ってメガネを作ってきました。
 
店員さんのとても丁寧な接客、そしてもはや「先生」と呼んで相応しい知的なオーラを放つ社長に検眼をして頂き、合わせてもらった眼鏡で外の景色を見せてもらうと、もう驚き。
最初はフツー、、、あれ?徐々に景色に奥行きが広がっていきます。そのうち景色がどんどん3Dのように立体的に見えていきます!
なんていうか、景色が生きている!!!!
「これが田中くんの持つ目の力だよ」と先生。
店内に戻り、掲示板を見るとピントを合わせた文字が頭に飛び込んでくる!
「文字が飛び出しているでしょ」と先生。
なんていうか、文字がしっかりその意味を持って頭に飛び込んでくる!!
もう素晴らし過ぎる。
締めは店内で頂いたランチ。これがマクロビ料理で、味も最高でした。
「本物」でした。
 
先生曰く、その人の目の使い方を見れば、その人の外の世界の見方、その人自身の性格すらも把握できるようで、俺の性格も見事言い当てられました。
仰ったその通りの性格でしたし、「仕事も今の方が性にあってるでしょ?」と。「田中くんは個人事業主でやっていくか、大企業向きだね。なんで大企業かっていうと人をいっぱい見てる人じゃないと君を上手く扱える人はそうそういないし、専門的な分野が得意だから」はい、その通りです!(コールドリーディングとかではなく笑)
 
出来上がった眼鏡も付けていると元々持っていた目の力が戻ってくるそうで、もはや大リーグボール養成ギブスのようですな。
出来上がりがめっちゃ楽しみです。
 
あらゆる人や物、情報がこの世に散らばっている中で、「本物」を勉強しているとあらゆるこの世の「本物」が理解できるようになっていく。
人を見る目、物を見る目、情報を見る目、それを見極めた上で煩悩として捨て去り、自分の宇宙を構成する為にチョイスしていく。
「本物だこれは!」という本物を見る力がもっと欲しいし、農家としてももっともっともっと「本物の野菜」を作っていきたい! 

でー、話は変わって何やらまた怪しい本を購入。
題名は題名でどうでもいいんですが、内容は東洋医学的な視点から見たあらゆる体調不良が網羅されています。
「風邪を引いたら体からの休めというサイン」とよく言われますが、それがより詳しく、あらゆる症状について書かれている本です。
 
人間は「肉体、感情、精神」の三要素で主に構成されており、我が国で主流である西洋医学は肉体的な側面でしか見ない学問です。風邪を引いたらはい薬、血圧が高い?はい薬といった具合に。
やはり、原因があっての異常なわけですし、あらゆる異常は何か原因があるワケです。そこをしっかり気付きとして得ていないと現象に振り回される原因になるわけです。
 
そしてその異常は「エゴや自我」の存在がある為に原因として起こってくる、という気付きがない場合、あらゆる自然の法則に振り回される事になります。

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