絶妙な角度

外の世界はそこそこに精神世界で生きていこうと思考錯誤している若手農家です。興味のあるジャンルを徹底的に思い込みで執筆していきます。

外にあるものは自分自身の煩悩や執着の象徴

目の前の起こってくる現象、あらゆる私物は自らの内面が外面に現象化、物質化したもので、それは煩悩、執着の象徴。
そしてそれは過去の内面の象徴でもあるので、過去に執着してとらわれている者は望んだ未来は流れてこない。
だから断捨離、ミニマリズムが面白いんですわ。
 
大切にしていた洋服や集めていた音楽、本、勉強して得た知識、自分のアイデンティティにしていたあらゆる思想のこだわり、自分の関わる場所にあるホコリや チリ、これを内面の執着、不要なゴミとして掃除。徐々に手放せるものは手放していく。おれ部屋の掃除はたまにしかしないけど。。
自分の身に集める行為というのは「自我やエゴ」の役割でもある。捨てていくと必ず人生の新たな分岐が始まると思います。
人は何かを手放した時、そして失った時に何かを学んだり、何かを得る事が多いのではないでしょうか?それが大切なものであるならあるほどに。
 
執着を手放して「もういいや」「まあいいか」にすると生きるのがとても楽になる気がします。善悪の正解を出さないんですから。
捉え方でいくらでも悪になり、善にもなるのがこの世のあらゆる出来事の常です。善か悪か判断してるのが自分「自我やエゴ」であり、執着の象徴なわけです。
「こうなりたい、こうあるべきだ、こうしなきゃいけない」これを執着や煩悩として俯瞰して手放す。「別にいいや」にする。
 
みうらじゅん氏は断捨離に中指立ててますが、彼のように千手観音のごとく執着を握れる手のひらがたくさんある人はそれはそれでいいんじゃないかと思います。つーかどっちでもいいです。自由ですし。
ブッダは一度家族を捨てて家を出ているらしいですが、究極の断捨離ですね。
積み上げたものぶっこわしてー、身につけたものとっぱらってー、みたいな感じっス。
 
…やっぱこんくらいの夜中になるとあっちと繋がるタイムになるな。集めていた断片的な考えが脳みそで一気に集約されてボンボン出てくる。
これが不思議なもんで興味のある分野でしか発揮されない。
脳はおもろい。