絶妙な角度

外の世界はそこそこに精神世界で生きていこうと思考錯誤している若手農家です。興味のあるジャンルを徹底的に思い込みで執筆していきます。

他人を批判、非難する本当の意味

 伊集院光さんが自由奔放な蛭子さんについての考察で「蛭子さんを安易に批判、非難できない。なぜなら自分の未熟さとか自分の見たくない抑圧している側面とか、あらゆる自分の負の部分が批判とか非難をする事で浮き出てきてしまうから」と言っています。

 他人を非難したり批判する意味、まさにこの通りだと思います。
 あらゆる人や物、自分の見ている世界は自分の一部だという事は決まっていますが、自分の抑圧している部分が強ければ強いほど、他人の性格や行動に投影され、批判したくなる。
 「オシャレを頑張れば頑張るほど、ダサい人を否定したくなる心理」「勉強を頑張れば頑張るほど、安易な考えの人を否定したくなる心理」といえば分かりやすい。
 誰かへの、何かへの非難や否定の裏には必ず自分のありのままを演じられない、自分への無理が生じた心理が隠れています。
 自分の中で抑圧した想いを認められずに自己否定しているから、他人をも否定する。
 
 そして「他人を批判、非難しないようにしよう」とありのままを意識的に抑圧するのもちょっと違います。そうする事によって例えば友人が誰かを非難したり批判している話を親身に聞いているつもりになって、その実は友人を使って自分の批判や非難の抑圧した心理を代弁して貰っている状況を創り出す事に繋がります。
 言い方は冷たいですがまさに「負け犬の傷の舐め合いコミュニティ」を形成する事になる訳です。

 だからそう思っている自分を否定したり責めたり抑圧してはいけないという話になってきます。ひたすら自己観察して常に「今ここ」で自動ヴィパッサナー瞑想状態、つまりは「ありのままを観察している自分」にいる。
 そしてそれが自分で自分のあらゆる行動を自己否定や自己嫌悪せずに許す事に繋がっていきます。
すると誰かや何かへの、自分の中のあらゆる批判や批判の観点は消えていきます。矛盾するようですが、非難したり批判してもいいんです。ただそれを自己否定や自己嫌悪せずに気がつくだけ。
 
 なのでセクハラやテレビ番組なんかの下ネタに非難したり、あまつさえクレーム入れちゃう人は無意識裏では本当はドスケベなんですね間違いなく。
 自身の内側の世界に抑圧している部分が、その抑圧している分だけ外側の世界に反映されて事象が現れますので。

非難や否定、ネガティヴな念が出たら気付きのチャンス。